祝2度めの映画化!!
遠藤周作の作品「沈黙」を原作としたM・スコセッシ監督の「沈黙 サイレンス」が2017年公開することになりました。2度めの映画化ですね。
日本からは主要キャストとして窪塚洋介さん、浅野忠信さん、イッセー尾形さん、塚本晋也さんらが参加し、ハリウッドからはリーアム・ニーソン、アダム・ドライバー、アンドリュー・ガーフィールドらが参加しています。
名優ぞろいなので、とても楽しみですよね。
沈黙を考察する
さて話題になっている「沈黙」ですが、深く重たい宗教的なお話です。あらすじを紹介しておきます。
まだ読んでいない人にはネタバレになってしまうので、ここは飛ばしてください。
あらすじ
島原の乱後、宣教師クリストヴァン・フェレイラが、日本での布教でキリスト教禁止令に屈して棄教したという。弟子のセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは宣教をすべく日本に潜入する決意を固める。
寄港したマカオで日本人のキチジローと出会う。キチジローが案内役となり、五島列島に潜入することができた。彼は現地にまだ居た隠れキリシタンに会うことができ、布教の足がかりを得るが、やがて長崎奉行所に潜入を悟られ追われる身となる。
苛烈な拷問に苛まれる信者たちとともにガルペは殉教してしてしまう。ロドリゴは神に奇跡と救いを求めるが、神はなんらの言葉も奇跡も与えてくれずただ「沈黙」するだけだった。逃亡を続けるロドリゴは案内役だったキチジローに密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。
ロドリゴは棄教した師匠フェレイラと会うことになる。そこで日本人にキリスト教は必要なのかという命題を突きつけられる。
一方密告したキチジローは告解をするためにロドリゴに会いたいと奉行所の門の前で泣き叫んでいる。
ロドリゴはキチジローをすでに見限っており軽蔑していた。殉教を覚悟して牢につながれたロドリゴに、フェレイラが語りかけた。師の説得を拒絶するロドリゴは、連日遠くから聞こえる変な音を止めてくれと頼む。
しかしその音は、拷問されている信者の声であり、棄教を誓ったのにロドリゴが棄教しない限り許されないことが告げられる。
信仰を守るのか、棄教によって苦しむ人々を救うべきなのか、究極の選択をつきつけられたロドリゴは、かつてフェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知る。
そしてロドリゴは踏絵を踏むことを受け入れる。
夜明けに、奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。彼の足を襲う激しい痛み。そのとき踏絵のなかのキリストが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語りかけてくる。
ロドリゴ裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。
神はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」。
踏絵を踏むことで神の教えの本当の意味を悟ったロドリゴは、自分が今でもキリシタン司祭であることを自覚する。
踏み絵を踏む時に鶏が鳴く
このロドリゴ宣教師が踏み絵を踏む時「鶏が鳴いた」という表現がでてきます。
この「鶏が鳴いた」という表現はとても深く興味深いものなのです。夜明けだから単に「鶏が鳴いた」のではありません。
聖書でのエピソード
鶏が鳴くエピソードは聖書にも登場します。
マタイ伝26章34節にあります。
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
最後の晩餐の後、捕まる前にペテロに対してキリストが言った言葉です。
ここでの意味は物理的に夜明け前という意味で、時間を表す表現でしょう。有名な節なので沈黙を読んで「鶏が鳴いた」という文を見た時にこの節を想起した人も多いのではないでしょうか?
鶏が鳴く意味
しかし「鶏が鳴く」には
新しい世界がやってくる
という意味が込められています。これは鶏が鳴くことで夜が明けることからの意味づけです。
日本には古来から「鵺鳥鳴ク(ぬえとりなく)」(この場合の鵺は鶏という意味)という表現があります。
世界が変わる、意識が変革する、新し秩序がやってくるなどを示唆する表現なのです。
ですからロドリゴ宣教師が踏み絵を踏む時に、「鶏が鳴いた」のは
ロドリゴ宣教師にとって世界が変わった
ことを意味します。今までの信心が変革し、新しい信仰世界に到達したことを指すのです。
短い簡素な文章ですが、「沈黙」のすべてがこの「鶏が鳴く」に集約されていると言っても過言ではありません。
まとめ
今度の映画化ではどのように「鶏が鳴く」という意味を表現するのか、とても楽しみです。
できればここに重きをおいてほしいなぁという、遠藤周作ファンとしての願いがあります。