「四面楚歌(しめんそか)」は「周囲が全て敵だらけで孤立していて、救援も望めない状態」を意味します。
出典は「史記」。中国の前漢の時代に司馬遷(しばせん、紀元前135年? – 紀元前86年?諸説あり)が編纂した歴史書です。この書物の項羽紀という章に以下のようなエピソードがあります。
項羽は漢の劉邦と戦争では優勢だった。しかし劉邦は次第に有力な武将を従え、戦力を増やすことに成功していた。
そういった中、両者最終決戦である垓下(がいか)の戦いが始まった。既に戦力では劉邦連合軍30万対項羽軍10万となっており、数の上では項羽は劣勢となっていた。
しかし項羽軍は数にも負けず局地勝利を上げて幾度か敵を退けた、しかしそれも長くは続かず、劣勢は決定的になり、完全に包囲されてしまった。その時、劉邦連合軍の兵士が項羽のふるさとである楚の歌を歌っているのが耳に入った。
これを聞いた項羽は「もう既にかなりの楚の人間が劉邦に下っているのか。まるで楚が占領されたかのようじゃないか」と嘆いた。
このエピソードから「四面楚歌」が「周囲が全て敵だらけで孤立していて、救援も望めない状態」を意味するようになりました。
項羽はこの状況で敗戦を完全に覚悟し、玉砕の決意をします。この後の項羽はわずか800騎を引きつれ、包囲を破ります。
これに気がついた劉邦軍はすぐさま追撃します。項羽の兵士は追撃で数を減らし、30騎足らずになってしまいました。
それでも項羽は戦うことをやめず、最終的には劉邦軍に突撃し、数百人を殺したあと自刃したのです。すさまじい最後です。